おそらくは今の時代ほど、科学に価値を置く時代もないでしょう。科学の成果は、日常のあらゆる所に当たり前に存在していて、私たちの生活を便利にしてくれています。

例えばより高度な科学技術で作られた製品を見ると、「進歩した」と感じます。最近は、技術レベルは変わっていなくても、デザインによって進歩を錯覚してしまう場面もよくあるわけですが、それはまた別の話しとして。

医学の中の科学

科学というのは、当然ながら医学においても重要になります。科学とは、対象を客観的・系統的に研究するということですが、もう少し違う言い方をすれば、「それはどうなっているのか」を調べるというのが基本になります。人体がどうなっているのか、生命活動はどうなっているのか、薬はどのように効くのか、こうしたテーマの研究は非常に科学的です。

しかし、医学で難しいのは、科学以外にも重要なものがある、という部分です。人体がどうなっているのか分かっても、それだけでは治療できないという話です。

医学の中の芸術

「医は科学に基礎を置いたアートである。」ウィリアム・オスラーの言葉です。アート(芸術)の解釈の一つは、同じことをしても誰がやるかによって結果が変わるということです。

人類はまだ、人体がどうなっているかを全て解明していません。それでもかなり分かってきているのですが、いつでも期待通りの結果が出るとは限りません。治癒率100%という治療は存在せず、名医と言われる人と同じ薬を出しても、同じ結果が出るとは限らない。機械を相手にするようにはいきません。名医との差は、しばしば腕の良し悪しという言葉で説明されます。

この「腕」というのはなかなかにやっかいで、具体的に何で腕が決まるのか、はっきりしません。その人のオーラみたいなものまで含めての「腕」です。科学で切り込むのは難しいでしょう。科学に基づいた治療をすれば腕がいいというわけでもありません。

伝統医学と科学

私がまだ駆け出しの頃、治療成績を上げようと様々な手法を試していた時期があります。基本は経絡治療でしたが、中医学や現代医学的鍼灸、長野式やら積聚やらと、もがいていました。

試行錯誤の末、よい結果が出たのが今の方法でしたが、これは難経という医学書に基づいた方法です。本が書かれたのは2世紀の前半といわれていて、内容的にも科学に基づいた医療というよりは、思想哲学に基づいた医療です。しかし、難経という書物が私の腕を引き上げてくれた、ということは間違いありません。

とはいえ、伝統的な医学を行うからといって、科学を無視することはありません。治療行為には、必ず効いたか否かという結果がついてきます。この結果を客観的に見ることは、避けては通れません。治療効果を示す客観的なデータのことを科学的根拠(エビデンス)といいますが、伝統鍼灸であってもこうした治療効果の判定は可能です。また、その作用メカニズムも科学的に解明が進められています。

科学が重要なのは当然として、しかし科学だけでも成立しないのが医療の世界です。今後とも謙虚さを忘れず、邁進していきたいと思います。

関連記事:NBM(narrative-based medicine)